最近ちょっと、精神的に不調です。

というか、不調でした。

記事を書き始めたのが2週間くらい前なので、今はだいぶ浮上したんですが。

何があったというわけでもないんですけどね。

以前、「久々の激震」みたいに書いた、家族の問題もおさまりました。

その問題が「1年後、いや半年後には笑い話になってるといいな」と書いたら

前倒しで、すでに笑い話みたいになっています。

小さいことでは、やっぱり何かしらあるんですが、深刻なものではない。

…なのに、なぜか、憂鬱だったり。やる気が出なかったり。

やること、ちゃんとやれなくて、自己嫌悪に陥ったり。

自分へのダメ出しも多くて、「自己肯定感下がってるな~」というのを感じます。

そういうときには、内観して原因を探るようにしています。

このモヤモヤの元はなんだろう、古い記憶?他人由来の固定概念?

それによって、いくつか気づきはあったものの、

今回なかなかスッキリしなかったんです。

これかな?という固定概念(我慢に関するものとか)は出てきたんですが

ハッとするほどの気づきにはつながらないまま、何となく落ち着いてきた感じです。(笑)


気圧の変化で頭痛などの体調不良が起きる人も多いです。

知り合いにも何人もいますが、私も多分、そうです。

長い梅雨とその後の猛暑、最近では台風がどんどんきてますね。

結局、気圧の影響か、周囲の人からの影響(HSP体質なので)か、

いまいち断定できませんが。







そんなこんなで、自己肯定感が下がってたのですが、

体臭・PATM的な症状でのぶり返しはありません。

毎日汗だくで職場に通って仕事して、仕事以外の外出もしてますが

いたって普通に過ごしています。

症状そのものもですが、「気にしない」という気持ち的なものでは

去年よりもさらに不安感は小さくなっています。

これ、逆に言うと「不安感はゼロではない」、ということです。

人の仕草をみて、ちょっと不安になるということはたまにあります。

今回みたいに、自己肯定感が下がってるときは

特にそういう不安も大きくなりがちなのです。

でも、その不安よりも「自分の完治」への確信の方が大きいので

その不安がどんどん増幅して、また症状がぶり返す…ということにはなりません。



これまで、治るためには「意識」の在り方が大事だということで、

「自己肯定感を高める」ことや、

自分で自分の足を引っ張る潜在意識の「思い込み」やトラウマを解消することについて

いろんな角度から書いてきました。

でも今回、自分が「自己肯定感だだ下がり」状態の中で

思ったことがあったので、そのことについて書いてみようと思います。




それは、治るためには


「自己肯定感MAX」じゃないと治らない、とか

不安感がゼロにならないと治らない、とか

絶対にこうしなければいけない、絶対こうならねばならない、とか、


そういうことは一切ない


ということです。

ブログ内で何度も、「方法は他にも色々あるので自分が気になった方法を」と書いてきました。

それは、私の経験談を見たことで、

「これと全く同じことをしないと治らない」と思われたくないな、というのが大きいです。

私自身、ネットで「治った」とか「改善した」とかいう書き込みを見ると、

その通りに必死で実践したものでした。

玄米菜食に毎日汗だくでウォーキング1時間以上。

パパイン酵素で身体を洗って、毎日湯船に40分。

他にもカンジダ対策で厳格な食事制限、カゼイン・グルテンフリーも。

遅延アレルギー検査でレッド・イエローの数値が出たものも、徹底的に排除しました。

何種類ものサプリも、毎日きっちり飲みました。

他にもまあ色々「徹底的に」やりました。

やらないと治らない、そんな強迫観念みたいな気持ちもあったと思います。



そうやって、徹底的にやったことが効果なし、というのではなく、

改善に役立ってたものもあるのでしょうが

取り組んでたときの精神状態によてって、その後が全く違ってくるのでは…ということです。

今では、完治するのに「治った人のやり方をそのままたどらないと治らない」

というのは、はっきり間違いだと思っています。

全く同じことをしても、そのときの精神状態によって結果は違う、ということ。

だからといって、真似するのが悪いというのでもなく、良い意味で何でもアリというか

「治った人のやり方をそのままたどる」のもいいし、

部分的に取り入れるだけ、または全然違うアプローチからの完治もアリ。

結果が違ってくるのは、単に「体質の差」ということではなく

そのときの個人の潜在意識の在り方に左右される、と思っています。

例えば、

「これと全く同じように、厳密に取り組まないと、絶対治らない」と思い込むことで

今日はNG食材食べちゃったとか、今日はシャワーだけになってしまったとか、

少しでも違うことをしちゃうと、それだけで罪悪感とかいらぬ反省をしてしまい

結果それは自己肯定感を下げることになるし、

潜在意識にさらにいらない考えが刷り込まれることになりかねない。

「自分は根性がない」「自分はダメなやつ」とか。

他にも、完璧にこなしたとしても治らない場合、

「これだけやってるんだからきっと治る」という確信より

「やっぱり自分には効果がないんじゃないか…」という不安が大きければ、

結局「効果がない」ことになってしまう。

何度も書いてきましたが、やっぱり最後は「(無)意識」なんだなあ、と。

無意識(潜在意識)の中の、足を引っ張る余計なものを見つける、ということです。

潜在意識から嫌な現実の元になる余計なものをなくしていけば、

食事療法でもサプリでも自己啓発的な方法でも、格段に効果が出やすくなります。




私自身がそうだったから思うのですが、PATMに限らず難病の治療などで悩む人は、

治ったという人の情報を見つけると、とにかく試してみたくなる。

そして、その治った人と同じことをすれば治ると「信じたい」気持ちと「信じ切れない」気持ちの葛藤、

あるいは、「全く同じことをしないと絶対治らない」という、自分を縛る思い込み。

こういうものを抱えている場合が多いんじゃないかな、と思います。

でもそれ(葛藤や自分を縛る思い込み)が、完治を邪魔しているんですね。




特に、、「全く同じことをしないと絶対治らない」という強い思い込みは

「~でなければならない」という強迫観念みたいなものと紙一重。

「~でなければならない」「~すべき」という考えは

PATMや術後臭関連に限らず、どんな事柄でも

それ自体が、ほぼ他人や社会に植え付けられた固定概念です。

そして、それはその人の足かせとなり、うまくいかない現実の元になる。



突き詰めると、こうして「治ってもらいたい」と思って書いている私の文章もまた

誰かにとっての「他人由来の固定概念」になることもある…ということなんですね。

「この人の経験と同じこと・似たことを経験しないと治らないんじゃないか」

「自己肯定感を100%まで高めることが出来て、やっと治るんだろう」

「絶対治るという強い確信を持てるようにならないと、治らない」等々。

キネシオロジーの経験を書いたときに漠然と感じていた不安でもありました。

お世話になっていた先生に、完治したとして治療終了を告げられたとき、

「反応が全部消えてます。不思議ですね」と言われたことを書きました。

意識を変えると、不思議なことも起こり得るんです!ということを知ってほしかったからですが

逆に「そういう“不思議なこと”が起こらないと治らないのかな」なんて

思わせてしまったら嫌だな、と思っていたんです。

不思議を実感することがあろうとなかろうと、治るのには何の関係もありません。

大事なのは「(無)意識」の中をクリアにすることであって、

方法はなんであれ、誰もが完治できるはず。

経験からそう思っているから、ブログに書こうと思ったんです。





話がそれました。(それが通常運転)




考え方にもクセというものがあるそうで、

自己肯定感が上がっても、やっぱり何かのシチュエーションで

「自分が我慢すればうまくいく」「自分より相手の方が優れている」とか

つい考えてしまうことがあるんですね。

そうすると、もれなくそれなりの現実がやってきて大なり小なり不快な目にあう(笑)


これまでわりとポジティブなことだけ書いてきたので、

そこまで完全に「不安」もなく「自己肯定感」もアゲアゲで、超前向き!にならねば

治らないんじゃないか…という誤解を与えてしまうおそれがあるので、

ここらで、白状しておきたいと思います。


今でも、ビクッてなるとき、あります。


それって、反射的に(大嶋先生流に言うと発作的に)起こるものなので、仕方ないと思ってます。

治ってごく最初の頃は、「やっぱり元に戻るかも」って不安を引きずってたけど

今ではいろんな情報から、そもそも全ての不快感は自分のせいじゃない、とか

HSPなどの体質から周囲のストレスを請け負いやすい、という自覚があるから

一瞬ビクッとなっても、「ああ相手のストレスを脳のネットワーク経由で引き受けちゃったのかな」

と、他人の仕草や言葉ではなく、自分の内側にフォーカスするよう視点を変えると

スーッと気持ちが楽になって、他人が鼻に手をやる仕草なんかどうでも良くなります。

最近私がよく使うのは、例えば通りすがりに鼻啜りされてイヤな気持ちになったとしたら

心の中で、「鼻すすり乙!」とつぶやきます。

(鼻すすりの仕草で自分のストレスをこっちに流そうったってそうはいきませんおつかれさま)

的な意味でつぶやきます(笑)

それが習慣になっていて、一瞬不快感や不安感を感じても、すぐにどうでも良くなっちゃいます。

どうでも良くなればなるほど、鼻すすりも咳ばらいもただの雑音になり、

やがて雑音と認識すらされなくなる。「耳に入っても脳が認識しない→無いことと同じ」

PATMの悩みの無い人にとっては、それが普通なんですよね。

そして、それが普通になると、

実際鼻すすりが聞こえなくなるというだけでなく、数そもののが減るわけです。

なぜなら、それまで我々が異様に鼻すすりを恐れていたのは、

周囲の人々の怖れや不安を、脳のネットワークを通じて引き受けていたから。

周囲の人々(知ってる人も知らない人も)の怖れや不安が、

我々にもっともダメージを与えるであろう鼻すすり等を選んで、仕掛けてくる。

その人が意地悪でやってるとか、そういうことですらありません。

通りすがりの場合には、相手はこちらを意識すらしてないでしょう。

極端な話、鼻すすりのような仕草がなくとも、すれ違うだけで不安になったなら

それは、すれ違った相手の不安である、とうことです。




そうとわかれば、他人からの「不快感」を全力でスルーする。
(この↓の本、友人に貸したら返ってこないので目次しか読んでないのですが(^_^;)






前の記事でも書きましたが、大嶋先生的な考えでいくと

目の前の人のすることで不愉快な気持ちになったとしたら、

その不愉快は、相手のものなんですね。

相手と自分は、多分同じ遺伝子のスイッチが入っちゃってるから反応してしまう。

遺伝子コード「GABRA1」だと「人から攻撃されたら発作が起きてしまう」コードなので

例えば、鼻すすりや鼻に手をやる仕草で「攻撃」されることで、

怒りがわいたりパニックになるなどの「発作」が起きるとも考えらる…。

自分に何の遺伝子コードが関係しているかは、専門家でないと難しいと思うのですが、

私は、自分に関しては「GABRA1」の遺伝子コードが関係してるんじゃないかと思っています。

今は唱えることはほどんどないけど。






いずれにせよ、その遺伝子のスイッチが入ってない人からすると、

その人のその仕草は全然気にならない。

だったら、自分の余計な遺伝子のスイッチをオフにしてしまえばいい。

相手の不機嫌を見たからって、自分まで不機嫌になったり不安になったりする必要はないのだから。




…やっぱり違う話になってる。

ええと。

今回の記事でお伝えしたかったのは、繰り返しになりますが

治るためには「自己肯定感MAX」じゃないと治らない、とか

不安感がゼロにならないと治らない、とか

絶対にこうしなければいけない、絶対こうならねばならない、とか、

そういうことは一切ない、ということです。

「治った人のやり方をそのままたどらないと治らない」わけでもないし

「絶対治るという強い確信を持てるようにならないと、治らない」わけでもない。

何でもアリです。

じゃあ、何を選んだらいいのか迷う…こともありますよね。

いや、靴を一足買うのだって、デザインやら色やらで悩む私です。

迷ったときは、「自分が心地よいこと」を選ぶとよい、というのは、

スピリチュアル界隈でよく見かける言葉ですが、その通りかもな、とも思います。

私は、今ガツガツ頑張るのがしんどいので、

答えが出ないならじっとしてよう、という感じです。暑いし(笑)

うん。

今もまだ残ってる、そこはかとない憂鬱は、とりあえず浮上するまで放置することを選びます。

疲れたら、休むことも大事ですよね。



※明日からしばらく留守にするので、コメントなどの確認はお盆明け以降になります。